ドボコレミュージアムへ

ようこそ

土木コレクションミュージアム、略して、ドボコレミュージアムでは、土木界が保有する、普段目にすることができない貴重な写真や図面、歴史資料の数々をweb空間上にバーチャルで展示・公開しています。

この展示では、日本で開催された2つのオリンピックを軸に、世界でも高い生活水準を誇る都市 TOKYOを支えるインフラの魅力を社会背景とともにお伝えします。

過去から未来へと脈々と受け継がれてきた土木の蓄積とともに、変貌を遂げてきたTOKYOをぜひ実感してもらえれば幸いです。 


過去から未来。
新しいTOKYOへ。

「TOKYO」って、どんなイメージ?

安全で、便利で、快適。高い生活水準を誇る世界都市だと答える人は多いでしょう。でも昔からそうだったわけではありません。

江戸城が明け渡された1868年の5年前、ロンドンでは地下鉄(The Tube)が開業していました。明治の文明開化を経て近代国家への仲間入りを目指してから150年。日本は地震や戦争、災害など、幾度となく迫る苦難に直面してきました。

しかし、そのたびに乗り越えてTOKYOは進化してきたのです。街を便利に楽しめる地下鉄、火災の延焼を防ぐ幅の広い道路、台風から身を守る安全な川、日本の経済を動かす高速道路や新幹線――。先人たちの努力の結晶が、今のTOKYOを形成しています

そんなTOKYOで、1964年以来2度目となるオリンピックが2021年に開催されました。「TOKYO2020」です。熱狂に包まれたオリンピックを陰で支えたのが、社会基盤を意味するインフラストラクチャー(インフラ)でした。

「インフラ」は皆さんの生活を24時間365日、支え続けています。存在が当たり前すぎて、普段は意識することもほとんどないのではないでしょうか? 異なる時代に造られたインフラが、実は綿密な計画の下でそれぞれ折り重なってTOKYOを機能させているのです。

ドボコレミュージアムでは、土木界が保有する、普段目にすることができない貴重な映像や写真、図面、歴史資料の数々をweb空間上にバーチャルで展示・公開しています。

2つのオリンピックを軸に4つのパートに分けて、当時の社会背景とともにインフラの魅力をお伝えしています。

イントロ/軌跡 

 戦前〜戦後/世界都市「TOKYO」の夜明け 

1964/東京オリンピック前夜 

その後/TOKYO2020を経て次の世代へ 


イントロ/軌跡

TOKYOは一日にして成らず。1923年の関東大震災や1945年の東京大空襲を経て、現代に至るまで首都のインフラはどのような変遷をたどってきたのか。写真やインフラ整備の年表で振り返ります。

明治43年大水害時の浅草公園(『浅草公園池畔罹災民惨状陸上浸水ニ尺五寸』:都立中央図書館資料)

明治43年大水害時の浅草公園(『浅草公園池畔罹災民惨状陸上浸水ニ尺五寸』:都立中央図書館資料)

空襲により廃墟と化した東京(東京都復興記念館所蔵資料)

空襲により廃墟と化した東京(東京都復興記念館所蔵資料)

吾妻橋方面から見た本所周辺(東京都復興記念館所蔵資料)

吾妻橋方面から見た本所周辺(東京都復興記念館所蔵資料)


1920年代からの東京のインフラ整備100年を振り返ると、徐々に社会基盤が整備され、現在の「利便的」な都市に育ってきたことが分かります。ご自身が生まれた頃、就職した頃、子供が生まれた頃、両親や祖父母が子供の頃などを思い浮かべながら、楽しんでください。

東京のインフラ整備100年の年表

戦前〜戦後/世界都市「TOKYO」の夜明け

近代国家にふさわしいインフラの基礎が出来上がる黎明(れいめい)期です。上下水道の整備が開始され、地下鉄・都電の開業や治水の推進など、TOKYOにおける本格的なインフラの整備が開始されました。幻に終わった1940年東京オリンピックについても図録・ポスターを交えて紹介しています

公益財団法人メトロ文化財団  1927年(昭和2年)銀座線の歴史 

東京動画「昭和の東京シリーズ」

1000万人の話題「No.196 都電」(昭和42年(1967年)6月) 

映像:公益財団法人 東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館所蔵

地下鉄開通時の入口 (地下鉄博物館提供)

東京の地下鉄1

東京の地下鉄

東京には、東京メトロと都営を合わせて13路線、304.1kmの路線網があり、首都を支える地下回廊の役割を果たしている。東京の地下鉄は昭和2年12月に上野~浅草間2.2キロの路線からスタートした。  

日本で最初の地下鉄

日本初の地下鉄は、東京地下鐡道という会社が建設した。東京地下鐡道は、1925年に上野~浅草間の工事に着手して、1927年に最初の開通区間である上野~浅草間を開業した。 

1.開業当時のパンフレット表紙

2.大倉土木記念写真帖の路線図

3.開業時の上野駅(絵葉書)

4.上野駅標準断面図

5.日本初の地下鉄車両 1000形電車

6.渋谷駅の1000形電車 

資料提供:6.宮松金次郎氏撮影

東京の地下鉄2

90年間を生き抜いた2つの出入口

開業から約90年間を生き抜いた、稲荷町駅と浅草駅の2つの出入口を紹介する。

上野~浅草間で開業から変わらぬ姿で残されている出入口は、この2か所であり秀逸なデザインである。

稲荷町駅3番出入口

稲荷町駅の3番出入口は、開業当初から本構造で供用開始した唯一のものであり、文字通り90年間を生き抜いた出入口である。写真に見るとおり、構造、意匠ともに当時と変わらぬ姿で、今日まで浅草通りと清洲橋通りの交差点を見つめている。 

1.稲荷町駅の出入口図面

2.戦後の稲荷町駅

3.現在 の稲荷町駅

浅草駅4番出入口

浅草駅は開業当時、出入口は雷門側の仮設出入口1か所のみであった。東京地下鐡道史によれば、この4番出入口は土地柄を考慮したもので、東京地下鐡道が募集した懸賞設計図案の当選案から採用したと記載されている。吾妻橋のたもとのこの出入口は、開業後の供用開始であるが、約90年間変わらぬ姿で隅田川の流れを見守っている。

4.浅草駅入口断面図

5.戦後の浅草駅

6.現在 の浅草駅

資料提供:5.地下鉄博物館提供

東京の地下鉄3

東京高速鉄道の開業 

昭和13(1938)年、のちに銀座線の一部となる新橋~渋谷間の東京高速鉄道が開業する。全線の開業は昭和14(1939)年で、同年には東京地下鐡道との直通運転を開始し、現在の銀座線の運転形態が出来上がった。 

1.東京高速鉄道100形電車 

2.宮益坂の高架橋に勢揃いした100形電車

3.開通を知らせる出入口の広告

4.浅草直通記念パンフレットの表紙

戦前の地下鉄計画

現在の東京の地下鉄ネットワークの原型は関東大震災の復興計画として、1925年に内務省が告示した5路線82.4kmの計画である。その後、公的に検討したものは、1938年に帝国鉄道協会が1941年にまとめた調査書がある。この調査書は、地下高速鉄道網のあるべき姿をとらえた本格的な案であった。 

5.調査書に記載された東京市高速度交通網図

資料提供:1-2.宮松金次郎氏撮影

東京の地下鉄4

戦災からの復興

第二次世界大戦後、東京の戦災復興を目指した計画は、1946年に告示した5路線101.6kmの計画であった。この計画は、復興都市計画に合わせるとともに、私鉄のターミナルとなっている山手線の駅に接続させるなどの特徴があった。 

1.戦災復興院告示第252号の都市高速鉄道網図

丸の内線の建設

戦後、東京では2番目の地下鉄として建設されたのが丸の内線である。丸の内線の計画では、混雑激しい山手線と中央線を救済するため、郊外私鉄が接続する池袋と新宿から都心の丸の内、霞が関方面を効率的に結ぶU字型の路線となった。 

2.丸ノ内線計画路線図

3.丸ノ内線工事の様子(茗荷谷付近)

4.丸ノ内線工事の様子(御茶ノ水付近)

5.岸首相がテープカットした全通開業式

6.開業直後の後楽園付近

7.御茶ノ水で中央線と交差

資料提供:3,4,6,7.宮松金次郎氏撮影

東京の地下鉄5

都営地下鉄の誕生 

わが国の経済活動は昭和25(1950)年の朝鮮動乱によって戦前の水準を回復するとともに、都市部であふれた人口が郊外へ拡散するというドーナツ化現象が顕著になった。

都市交通審議会から昭和31(1956)年に出された「東京及びその周辺における都市交通に関する第1次答申」は、東京の都市計画にも配慮したものとなっており、戦後郊外の近郊都市へ移動した人口に対処するために、街づくりと連動した総合的な交通計画の必要性を提言している。

また、この答申では、唯一の建設経営主体とされていた帝都高速度交通営団以外の者にも「営団との緊密な連携のもとに建設に協力させることを考慮すべき」との見解から、営団以外の経営主体にも地下鉄建設を認めた。

この結果、現在の浅草線は東京都が建設し経営主体となることが決定し、事業免許は営団から東京都に譲渡され「都営地下鉄」が誕生した。その後、都営地下鉄は三田線、新宿線、大江戸線を開業し、現在では日本で2番目の輸送人員を誇る地下鉄事業者に成長している。 

1.泉岳寺開業時のパンフレット表紙

2.西馬込の車庫に待機する浅草線初代の5000形車両

3.開業を待つ東銀座駅

4.三田線延伸計画パンフレット表紙

5.新宿線全通記念パンフレット表紙

6.大江戸線命名前の新宿開業パンフレット表紙

資料提供:1-6.東京都交通局

東京の地下鉄6

1964年以降 高度経済成長期から現在まで 

昭和30年代後半以降は、営団と都営という2つの事業者が数路線を同時に建設を進め、順次区間開業を繰り返しながら、国鉄や私鉄も含めた輸送力の増強が順調に行われた。

しかし、昭和40年代の高度成長期には、東京圏のドーナツ化現象は外方への拡大を続け、都心部の路線は輸送力の限界を迎え、地上の路面交通も悪化の一途を辿っていった。

これに対応するように次々に建設される地下鉄は、路線が増えるに従って建設深度を増し、路線間の連絡も三次元的な構造となって非常に複雑な様相を呈していった。

その後は、都心部の新線建設から郊外路線の延伸と線増など既存ストックの高度利用を中心に既計画の建設促進による輸送力増強と混雑緩和を骨子とした計画にシフトした。

平成の時代の東京では都心回帰と都市再生の動きが加速し、郊外路線の輸送量増大と相まって都心部の既存地下鉄路線は再び輸送力の限界を迎えることとなった。

東京の地下鉄は建設当時に予測した将来需要に基づいて建設してきた。13路線の整備が一段落した現在では、都市の更なる高度化から当初の予測を超える輸送需要の増大への対策として建設から改良の時代へと向かっている。 

1.日比谷線開業 (昭和36年)

2.東西線開業 (昭和39年)

3.千代田線開業 (昭和41年)

4.有楽町線開業 (昭和49年)

5.半蔵門線開業 (昭和53年)

6.南北線開業 (平成4年)

7.副都心線開業 (平成20年)

8.21世紀を指向して計画された南北線のパンフレット 
地下鉄のホームドア採用は日本初であった

9.地下鉄の車両は開業のたびに新機軸を採り入れた最新の性能と設備を持つ車両であった

開通を知らせる出入口の広告 (地下鉄博物館提供)

幻の1940オリンピック東京大会

関東大震災からの復興を果たし世界有数の近代都市へと発展した東京市は、その姿を国内外に示す機会としてオリンピックの招致を推進し、実現させた。

大会は1940年(昭和15年)の「紀元二千六百年奉祝記念事業」の祝典に合わせて同時に招致した万国博覧会とともに開催する予定であった。

メインスタジアムは、当初は明治神宮外苑を予定したが、内務省神社局からの反対で現在の駒沢競技場とすることとなった。ここには選手村も併設する予定とし、このほかにも各種の競技会場を東京市内外に計画した。

1937年(昭和12年)の盧溝橋事件以降、オリンピック開催に否定的な空気が国内外で広がり、IOCに対して開催反対の電報が多数届くに至って、1938年(昭和13年)にIOCに大会返上を申し出た。(平野隆)

1.第12回オリンピック東京大会の公式ポスター

2.東京市紀元二千六百年記念総合競技場(世田谷駒沢)全体の完成予想鳥瞰図

3.交歓広場の完成予想図

4.中央体育館(神田駿河台)立面図

5.中央体育館(神田駿河台)一階平面図

6.中央体育館(神田駿河台)完成予想図

7.選手村全体鳥瞰図

8.選手宿舎二階平面図

9.選手宿舎正面立面図

10.選手宿舎断面図および側面立面図

11.水泳場(世田谷駒沢)完成予想図

12.水泳場(世田谷駒沢)一階平面図

13.水泳場(世田谷駒沢)立面図

14.自転車競技場(芝浦)鳥瞰図

15.自転車競技場(芝浦)平面図

16.自転車競技場(芝浦)立面図

ここに紹介した6つの施設の内、完成したのは現在も戸田のボート場として存続している埼玉県戸田市の漕艇場が唯一の施設であった。世田谷区駒沢の総合運動場は、1964年(昭和39年)の第18回オリンピック東京大会で整備され、駒沢オリンピック公園として親しまれているのは皆様御存知の通りである。そのほかの施設については、いずれも実現せず用地は別の用途で利用されている。(平野隆)

17.漕艇場(埼玉戸田)鳥瞰図

18.荒川戸田臨水公園計画図

19.オリンピック関連施設配置計画図

20.聖火台

東京駅 昭和7年(宮松金次郎氏撮影)

都電とトロリーバス1

昭和39年(1964)年当時、東京の街の足は都電であった。200km以上の路線網を誇った都電は、オリンピックの輸送にも大活躍し、地下鉄網が未完であった都内の交通手段として国内外の来街者たちから愛された。

1.昭和39(1964)年4月の都電路線図

2.オリンピック開催にむけて昭和39年の東京は歓迎ムード一色であった

資料提供:2.宮松金次郎氏

都電とトロリーバス2

オリンピックと都電

オリンピック開催前後には都電も系統板に行先のローマ字表記をして外国からのお客様をささやかにおもてなしをした。オリンピックと都電の写真は全て宮松金次郎氏撮影。
(平野隆)

1.日本橋付近を行く1系統品川行き電車(昭和39年10月4日)  

2.系統板上に行先表示 側面の行先札はこの時期だけの特製 

都電の色

1950年代の都電は緑とクリームの塗分けであった。この時代の塗装は荒川遊園に保存されている6152号車で再現されている。その後は、黄色地にえんじ色の帯の時代が長く続いた。荒川線のワンマン化の時に帯が青色になり、冷房車の導入に伴って現在の色になった。

3.昭和39(1964)年6月14日上野公園  

4.昭和39(1964)年6月14日上野広小路 バックは松坂屋 

5.緑とクリーム ~昭和39(1964)年

6.黄色地にえんじの帯  ~昭和53(1978)年

7.黄色地に青い帯  ~昭和59(1984)年

8.白地に緑帯  ~現在

資料提供:1-4.宮松金次郎氏撮影

都電とトロリーバス3

都電と東京の街並み

全盛期の都電は都内のいたる所を網の目のように走っていた。空の広かった頃の東京を走る都電と街並みは映画「三丁目の夕日」の世界であった。

1.首都高開通後の日本橋を渡る 昭和43年9月7日

2.中央通りの髙島屋前を走る 停留所名は通三丁目 昭和46年3月1日

3.松坂屋前にあった中央通りの上野広小路電停 昭和43年9月22日

4.車の洪水にもまれる夕暮れの上野駅界隈 昭和46年3月13日

5.今も変わらぬ総武線の下を潜るアキバの風景 昭和46年3月13日

6.アキバの端っこ末広町あたり 昭和46年3月13日

資料提供:1-6.宮松慶夫氏撮影

都電とトロリーバス4

1.動物園には都電に乗って 動物園の入口に電停があった 昭和46年3月13日

2.モノレールの下を行く専用軌道 今は動物園の一部に 昭和46年3月13日

3.護国寺前の音羽通りを行く 昭和46年3月15日

4.音羽通りの橋を渡って江戸川橋終点へ 昭和46年3月15日の路線

5.今も変わらぬ不忍通りの急カーブ千駄木二丁目 昭和43年3月13日

6.家路を急ぐ人たちで賑わう団子坂下 昭和46年3月13日

7.「旅籠町」付近

8.「須田町」付近

9.「須田町」付近

10.「上富士前」付近

資料提供:1-10.宮松慶夫氏撮影

都電とトロリーバス5

トロリーバスと東京の街並み

トロリーバスは都電を補完して目立たない存在であったが、全線約51kmは日本一の営業距離を誇った。排気ガスの出ないエコな乗り物であったが、モータリゼーションの波に呑まれ昭和43年(1968年)に姿を消した。 (平野隆)

1.開業当時の今井終点 今の瑞江あたり 昭和27年7月13日

2.トロリーバスの開業で廃止になった都電東荒川線に沿って走る 昭和27年7月13日

3.広々とした品川駅西口駅前広場 昭和36年5月3日

4.品川の京浜百貨店前の渋谷池袋行き102系統 昭和36年5月28日

5.四谷三光町で都電と並ぶ 今の新宿5丁目交差点付近 昭和36年12月16日

6.空の大きな上野の不忍池畔で終点を目指す 昭和34年6月14日

資料提供:1-6.宮松金次郎氏及び宮松慶夫氏撮影

都電とトロリーバス6

その後の都電

昭和47年(1972年)、都電は現在の荒川線を残して姿を消した。最後に残った27系統と32系統は昭和49年(1974年)に名前を荒川線と変え存続することとなった。全線の80%以上が専用軌道の荒川線は現在も走っている。  (平野隆)

1.荒川線になったばかりの頃 町屋駅付近を行く6000形

2.車掌さんが引き紐を引くとチンチンと鐘が鳴った

3.高層ビル群をバックに走る雑司が谷付近

4.昭和53年ワンマン化記念の花電車

5.ワンマン化で車両も更新された

6.冷房車も走るようになった

7.現在は最新型の新造車が走る

東京近辺を走った都電の仲間達

現在、東京近郊に残る路面電車は都電荒川線と東急世田谷線だけになってしまった。過去には横浜や川崎にも市電があり、世田谷線は玉電と呼ばれた時代があった。江ノ電は通勤路線に成長し、今も盛業中である。  (平野隆)

8.昭和46年に廃止された横浜市電

9.昭和44年に廃止された川崎市電

10.今も活躍を続ける江ノ電(江ノ島電鉄)  (昭和37年)

郊外私鉄と呼ばれた路面電車たち

太平洋戦争中、戦時統合によって当時郊外に向かう私鉄であった城東電軌と王子電軌が東京都に吸収された。現在の荒川線は、元々、王子電軌の路線である。戦前までさかのぼると埼玉にも路面電車が走っていた。  (平野隆)

11.城東電車(城東電気軌道)  (昭和13年)

12.城東電車(城東電気軌道) (昭和13年) 

13.王子電車(王子電気軌道)  (昭和16年)

14.川越電車(川越電気鉄道)  (昭和14年)

資料提供:8-14.宮松金次郎氏撮影

上野公園 昭和46年(宮松康夫氏撮影)

1964/東京オリンピック前夜 

一大イベントである「1964年」を前に、急ピッチでインフラ整備が進む時代です。首都高速道路や東海道新幹線、東京モノレール、羽田空港、地下鉄など、TOKYOを今も支える交通の屋台骨の多くは、この時代に完成しました。今も多くのインフラが現役で稼働しています。日本で2度目となるオリンピック「TOKYO2020」の各会場をつなぎ、開催期間に大きな渋滞を生じさせなかったのは、まさにこの時のインフラが大きな役目を果たしたためです。 

東京モノレール株式会社 東京モノレールの建設から開業まで

日本通運株式会社 白いレール(1964)

1932年(昭和7年)吹流しと十字型の風向標示灯(資料提供:国土交通省関東地方整備局)

1952年7月 羽田空港返還のセレモニー(資料提供:国土交通省関東地方整備局)

昭和30年代の高速道路工事風景

首都高3号線渋谷系前312工区

1960 年代の工事風景

1960 年代の工事風景 

1960年代の工事風景 

首都高速道路1

「人はみち、物は水」 江戸の水路を活用した首都高速道路の誕生

日本の首都東京は19世紀中頃まで江戸と呼ばれていた。江戸は、慶長8(1603)年に徳川家康が幕府を開き、江戸城を中心として、5つの街道と総延長2,000kmにも及ぶ水路網が整備された。当時、人の移動には道が、米など生活物資の輸送には水路が使われた。慶応4(1868)年に江戸は東京と名称が改められたが、戦前の東京では水運が栄え、ベニスと並ぶ"水の都"と呼ばれていた。戦後、江戸時代以来の水路の一部は首都高速道路に姿を変え、現代では人の移動も物の移動も"みち"が主流となっている。

 戦後の東京では、人口と自動車数の急増に対して、道路整備が著しく立ち遅れていた。昭和30(1950)年頃における東京の道路率(道路面積が陸地面積に占める割合)はきわめて低く、当時、ニューヨークの道路率35%、ロンドンの道路率23%に対して、東京ではわずか10%足らずだった。そのため、当時の東京では交通渋滞が深刻な問題となり、「1960年代半ばには、都心部のほぼすべての主要交差点が麻痺するだろう」といわれていた。このような状況を改善するために、都心部の街路機能を補完する「連続した立体交差道路」として首都高速道路が計画され、昭和34(1959)年に首都高速道路公団が発足し、オリンピックを契機に高速道路建設は一気に加速することとなった。

 敗戦で焦土と化していた首都東京の復興は急ピッチで進み、人家や商店、企業のビルなど建物の密集が顕著になっていった。日本の首都としての姿を見せ始めていたが、一方で舗装してある道はめずらしく、道路インフラ整備は急務であった。そのような街並みの中での一大事業が首都高速道路建設だった。

 オリンピック後は、都心環状線と放射路線の整備(1970年頃まで)、東名高速などの都市間高速道路との接続(1987年頃まで)、湾岸線や中央環状線のネットワーク整備(現在まで)と、着実に整備を進め、総延長320.1kmをもつ道路ネットワークへと発展した。そして、昭和39(1964)年の東京オリンピックまでに建設された路線は、50年以上が経過した今もなお、1日100万台の交通を支える首都圏の大動脈として活躍している。(高野正克)

1.第一期(1962年~1970年)「都心環状線と放射道路の整備」

首都高速道路の建設は、昭和34(1959)年に始まった。首都高速道路は当初、延長約14kmの都心環状線と都心から約6~7kmに及ぶ8本の放射路線、合計約71kmの自動車専用道路網として計画決定された。当時の首都高速道路は、幹線道路や江戸時代以来の水路など、公共空間を大いに利用しながら建設され、昭和37(1962)年12月、高速1号羽田線の芝浦~京橋間約4.5kmの区間で、初めて首都高速道路が開通した。開通当時の交通量は1日平均約11,000だった。

2.第二期(1971年~1987年)「都市間高速道路との接続」

第一期当初に計画された区間約71kmが昭和46(1971)年におおむね完成した後、首都高速道路では放射路線が順次延伸され、東名高速道路や中央自動車道など都市間高速道路と接続した。また、昭和51(1976)年には湾岸線の一部も開通した。放射路線の延伸や湾岸線の開通により、東京都に隣接する神奈川、千葉、埼玉の各県では、道路交通の面で、都心部と連絡が強化された。また、昭和62(1987)年には、第二の環状線となる中央環状線約46kmのうち、およそ4割にあたる約20kmの区間も開通した。

3.第三期(1988年~現在)「中央環状線など機能的ネットワークの強化」

第一期、第二期の整備を経て、ネットワークの拡大とともに首都高速道路の利用交通量も顕在化してきた。そのため、第三期では、主に都市間交通の迂回路となる中央環状線等の整備を進め、平成27(2015)年には中央環状線全線が開通し、首都高速道路のネットワークがさらに効率的に利用できるようになった。現在、首都高速道路は総延長320kmを越え、首都高速道路のネットワーク効果がさらに発揮できるよう、渋滞対策などの機能強化や、さらなる新規路線の整備を進めている。さらには、長期に信頼性の高い首都高速道路であるために老朽化した構造物を造り替える更新事業を進めている。

4. 首都高速道路建設前の日本橋(昭和初期) 

5.激化する東京都心部の交通渋滞(昭和35(1960)年頃) 

6.江戸時代の水路(旧築地川)を利用した都心環状線銀座付近の建設状況(1960年代初期) 

7.現在の都心環状線銀座付近 

資料提供:1-7.首都高速道路株式会社

首都高速道路2

オリンピックに向け障害を乗り越え建設された首都高速道路

 昭和35(1960)年に首都圏整備委員会でオリンピック関連道路が決定し、オリンピックに向けた首都高速道路の本格的な建設が始まった。首都高速道路公団は、オリンピックまでの約4年間に羽田空港から各会場を繋ぐ関連道路を開通させるという使命を帯び、しかも過密化した都市内で建設するという制約のなか、高速道路を建設することになった。

 首都高速道路は、家屋の密集地を避けるため江戸時代の水路の埋め立てや河川上空を高架として利用することになった。そのため複雑な構造となり、技術的にもさまざまな創意工夫が要請された。公団は「首都高速道路公団技術委員会」を発足させ、高架構造基準、照明、審美、交通などの専門分野ごとに、新しい材料、工法などの検討研究が行われた。これらの研究の中で、日本初となる様々な技術が採用されることになった。羽田~森ケ崎の海老取川河口の海底に構築された羽田トンネルでは、日本で初めてとなる「沈埋函工法」が採用され、画期的な工法として注目された。三宅坂ジャンクションは、皇居等の周辺環境に配慮し、世界で初めてとなる「地下ジャンクション」を建設した。日本橋川上空に建設した江戸橋ジャンクションでは、橋梁では初めて「立体ラーメン構造」を採用し、河川内の橋脚本数を劇的に減らすなどの創意工夫がなされた。

 このような難工事を経て、羽田空港と都心と選手村、国立競技場を結ぶ線32.8kmをオリンピックまでに開通させた。羽田空港から選手村のあった代々木まで街路で約2時間かかっていたのが、首都高速道路の開通により30分と大幅に短縮され、オリンピックでのスムーズな選手輸送に大きく貢献した。

 昭和37(1962)年の芝浦~京橋間4.5km開通後、本町~京橋間、芝浦~鈴ヶ森間、呉服橋~江戸橋JCT、鈴ヶ森~空港西間、神田橋~初台間がオリンピック関連道路として整備された。オリンピック開会の2ヵ月前に大体のオリンピック関連道路が出来上がり、最後に三宅坂JCT~霞が関、浜崎橋~芝公園、渋谷~道玄坂の開通と合わせ、最終的にはオリンピック開会9日前に予定していた32.8kmすべての区間が開通した。(高野正克)

1.東京都市計画都市高速道路網図(昭和34(1959)年)

都市計画決定された高速道路網のうち、赤線で示した区間がオリンピックまでに開通した。

2.江戸橋ジャンクション橋脚一般図抜粋

日本橋川上空に1号線のほか都心環状線と6号線が交差する場所であり、従来工法で建設すると、幅50mしかない日本橋川に100本もの橋脚の設置が必要であったが、桁と梁を結合させる立体ラーメン構造を採用することで、橋脚の数を3分の1程度に減らしている。今では都市部でよく見られる立体ラーメン構造であるが、江戸橋ジャンクションが日本で初の試みであった。

3.日本橋川上空での江戸橋ジャンクションの架設状況(1960年代初期) 

4.現在の江戸橋ジャンクション 

5. 沈埋函工法による1号羽田線羽田トンネルの施工(1960年代初期) 

6.建設中の三宅坂ジャンクション(1960年代初期) 

資料提供:1-6.首都高速道路株式会社

地下鉄 日比谷線・浅草線1

日本初の相互直通運転を実現した2つの地下鉄

昭和20年代から30年代初頭にかけて発生した都市部への人口集中は、戦後に始まった兵役や徴用からの復員者や疎開先からの帰京者の増加と、昭和25年の朝鮮動乱の勃発を契機とした経済活動の進展による就業人口の増加に起因して加速したものであり、さらに都市部であふれた人口が郊外に拡散するというドーナツ化現象を引き起こした。

 このことを背景に、戦前は銀座線のみであった東京の地下鉄は、戦後初めて建設された丸ノ内線に続き、昭和30年代に入ると「日比谷線」と「浅草線」の建設が始まった。

この2つの路線は、人口の増加に起因する通勤通学の交通需要の高まりに対応して、殺人的なラッシュの救済と悪化の一途を辿る都内の路面交通の緩和を目的として緊急に整備を進めた路線である。

 当時の運輸省は、急速に増加する都内への通勤・通学需要に対して抜本的な対策を講ずべく、昭和30(1955)年に大臣の諮問機関として「都市交通審議会」を設置した。昭和31(1956)年に出された「東京及びその周辺における都市交通に関する第1次答申」では、20年後の輸送需要に対応するための計画とする一方、東京の都市計画にも配慮したものとなっており、戦後郊外の近郊都市へ移動した人口に対処するために、街づくりと連動した総合的な交通計画の必要性を提言している。この提言では、交通需要の減少と分散の諸方策として、計画的な住宅供給や都市建設と併せて既存路線の輸送力増強とともに新設する地下高速鉄道は都心を縦貫して両端を郊外路線と接続し相互直通させることを骨子としていた。

 その第1号として建設されたのが「日比谷線」と「浅草線」である。直通運転を実施する具体的な路線として、答申の翌年に運輸省から関係鉄道事業者に指示があり、浅草線は京浜急行電鉄と京成電鉄と、日比谷線は東急電鉄と東武鉄道と、それぞれ相互直通運転を実施することとなった。東京における相互直通運転は、都心部を走る地下鉄が終端駅で郊外に向かう鉄道路線と接続して相互に列車の直通運転を行なうものである。主に首都圏の一都三県を一本の線で結ぶ運転形態となっており、都心部への短絡効果はもとより、乗換駅での混雑緩和や運転効率の向上による列車増発など、沿線地域住民の便益が大いに増進されるに留まらず、都市交通難の緩和に多大の効果をもたらすものである。日比谷線と浅草線は恒久的な相互直通運転を日本で初めて実現した鉄道路線であり、東京の都市交通政策上画期的なものであった。

 また、この答申が従来と大きく転換した点は、「1日も早く交通混雑の緩和を実現するために路線網の早期整備が必要である」として、唯一の建設経営主体とされていた帝都高速度交通営団(当時:現在の東京メトロ)以外の者にも「営団との緊密な連携のもとに建設に協力させることを考慮すべき」との見解から、営団以外の経営主体にも地下鉄建設を認めたことが挙げられる。この結果、浅草線は東京都が建設し経営主体となることが決定し、営団が保有していた事業免許は東京都に譲渡され,現在の「都営地下鉄」が誕生した。

 2路線とも郊外に向かう私鉄と相互直通運転を行うため、規格の共通化を行い、車両の大きさや線路の幅、電圧と集電方式などを各社間で合わせた結果、地下鉄としては初めてパンタグラフから電気をとる方式を採用した。(平野隆)


1.日比谷線の路線図と工事の状況写真

当時の町並みが写っており隔世の感がある。

2.日比谷線開通の記念乗車券

3.浅草線の工事区間及び開通時期

浅草線は5期に分けて建設され、昭和39(1964)年のオリンピックまでに開業したのは大門までで、オリンピック開幕直前の10月1日に単線運転で開業している。

4.都営地下鉄浅草線起業式

5.激化する東京都心部の交通渋滞(昭和35(1960)年頃)

6.空から見た日本橋ケーソン工事

7.銀座駅における日比谷線全線開通開業式

最後の開業区間となった霞ヶ関~東銀座の開業式は、銀座駅で挙行された。

8.日本最初の量産ステンレスカー日比谷線3000系

当時は世界最新の電車と銘打っており、車体の材質以外にも革新的な走行装置など最先端の技術が採用された。

9.日本最初の相互直通規格車両浅草線5000形

京成電鉄と似たオレンジとクリームの塗り分けにグレーのラインが入るデザインであった。

資料提供:1,2,7,8.東京メトロ、3-6,9.東京都交通局

地下鉄 日比谷線・浅草線2

建設工法と施設、そしてオリンピックの開催

 日比谷線と浅草線の施工方法はオーソドックスな開削工法を基本としていたが、河川との交差部や交通量の多い軟弱地盤の区間など、開削工法が困難な場所については、潜函(ケーソン)工法や凍結工法などが採用された。

 2つの路線の特徴として、相互直通運転以外にも既存の地下鉄路線や河川との交差が多いことが挙げられ、乗換えの便を図るため銀座総合駅への統合や人形町や東銀座を初めとする導線を考慮した連絡施設が作られた。

 特に日比谷線では、既存の銀座線と丸ノ内線との交差が5箇所におよび、国鉄(現在のJR)高架橋との日比谷付近での交差や人形町と東銀座で浅草線と交差するなど、今まで経験したことのない工事を施工する事となった。

 銀座駅での銀座線との交差部は、銀座線の建設当時に下にトンネルを既に作っていたが、日比谷線の集電方式がパンタグラフに変わったため、トンネルの高さが高くなり下床版を取り壊して低下させると共に銀座線の床版も撤去してPC桁に置き換えるなどの改造を行った。また、日比谷付近の国鉄第一有楽町架道橋下の工事では、東海道新幹線、東海道本線、京浜東北線、山手線が走っているため、レンガ積み高架橋の補強工事を実施すると共に、橋台や橋脚に変状をきたさないよう路下式潜函工法を採用した。

 日比谷線と浅草線の工事着手と時期を一にした昭和34(1959)年5月に第18回オリンピック競技大会の開催地が東京に決定する。これを受けて営団では昭和35(1960)年に日比谷線建設基本計画の改訂を実施し、全線開通をオリンピック開催前までとすることを決定した。

 当時営団は東京都が進める銀座・日比谷地区の地下自動車道路建設計画と銀座総合駅の設計協議に時間を要していたが、一方で昭和39(1964)年の東京オリンピックまでに日比谷線を全通させることが社会的な要請となっていたところから、問題となっていた東銀座・霞ヶ関間の工事を後に回して、昭和36(1961)年10月1日から霞ヶ関・中目黒間7.0キロの土木工事に着手することとした。

 また、東京都交通局でも浅草線の建設を鋭意進め、人形町、東銀座、新橋といった都心部を縦貫してオリンピック直前の昭和39年10月1日に浜松町駅や東京タワー、芝公園などの最寄り駅である大門までの開業を成し遂げた。

 日比谷線最後の開業区間となった東銀座~霞ヶ関間は昭和39年8月29日に開業したが、前後区間が先行して開業し中間部が最後に開業して繋がるという開業の順序は、営団及び東京メトロではこの日比谷線が唯一の事例であり、これもオリンピック東京大会という経済成長を世界にアピールする一大イベントに向かう社会の意気込みと捉えることができるのではないだろうか。(平野隆)

1. 日比谷線全線開業時のポスター

全線開業の目玉は、銀座駅の開業であった。カラフルな「ginza」の文字をモチーフにしたデザインが秀逸。

2. 日比谷線パンフレットに掲載された銀座総合駅鳥瞰図

既存の銀座線と丸ノ内線に加えて、簡略ながら当時の街並みも描かれている。

3. 上野付近の銀座線との交差部施工方法解説

日比谷線は昭和通りと浅草通りの交差点で交差しており、銀座線を下受けして日比谷線のトンネルを建設した。浅草通りには都電の姿も描かれている。

4. 浅草線開業パンフレットに掲載された東銀座駅鳥瞰図

左右方向が昭和通りで、地下は中央に道路、両側に浅草線の駅が配置されている。

5. 工事概要に掲載された東銀座~日比谷の解説

地上に晴海通りの街並みが描かれ、東銀座駅から日比谷線まで地下通路で結ばれている。東銀座駅で都営1号線(浅草駅)、銀座駅で銀座線と丸ノ内線、日比谷駅で建設予定の6号線(都営三田線)と交差している。

6. 日比谷線銀座駅における銀座線との交差部の横断面図

銀座線建設時に既に交差部分のトンネルを建設していたが、日比谷線の集電方式変更による高さ不足を解消するため断面A-Aのように下部を掘り下げ上下方向を拡大している。

7. 日比谷線 第一国鉄有楽町架道橋付近の横断面図

レンガアーチの国鉄高架橋を鉄筋コンクリートで補強している。線路の変位を吸収するため、工事中は当該高架部に工事桁を仮設した。日比谷線のトンネル上部には協議が難航した地下道路も描かれている。

8. 工事区間ごとに制作された工事概要(表紙、左から開業順)

昭和36年開業の南千住~仲御徒町間には銀座線の接続駅となった上野駅の俯瞰図を表紙に掲載。それ以降の開業区間では、試運転列車の写真を表紙にしている。工事概要では、開業時に配布されるパンフレットには掲載されない工事方法の概要や特徴などを解説していた。

資料提供:1-3,5-8.東京メトロ、4.東京都交通局

東京モノレール1

モノレール計画と建設

 昭和27(1952)年 ヘルシンキ大会、日本が戦後の国際社会に復帰して初めて参加したオリンピックである。同年、日本は東京にオリンピックを招致することを表明した。そんな時代にモノレール計画は産声をあげた。当時は、航空機の大型ジェット化や羽田空港拡張により航空需要が増加する中、東京都心と羽田空港を結ぶ交通インフラは京浜国道のみであったといっても過言ではない。モータリゼーションの著しい進行により、京浜国道の渋滞はひどく、わずか13㎞の区間に対して2時間かかることもあった。

 交通渋滞の苦情を多くの海外旅行者から寄せられた帝国ホテル社長であった犬丸徹三は、アクセル・レンナルト・ウェンナー・グレン(Axel Lennart Wenner-Gren)博士の開発したアルウェーグ式跨座形モノレールで解消しようと考えた。昭和28(1953)年6月3日、犬丸が鉄道や行政、民間会社等の関係者を招き、モノレールに関する説明会を開催したことを契機に、モノレール計画は本格的に始動することとなった。その後、反対運動や用地取得等の幾多の困難を経て路線計画が決定したのは昭和37(1962)年5月、東京オリンピック開催の2年前である。

 昭和38(1963)年5月1日に 起工式を執り行い、羽田空港~浜松町間の13.1㎞を1年5ヶ月という短期間での完成を目指してモノレール羽田線建設工事に着手した。モノレール羽田線は、羽田空港旧B滑走路の地下をトンネルで通過した後、海上の高架軌道上を走り浜松町に至る。モノレール線は、支柱を建てるための限られたスペースがあれば施工できるため、地下鉄や鉄道等と比べて工期を極めて短縮できたが、随所に点在する施工条件の厳しい区間は特殊工法を駆使して昼夜兼行の突貫で進められた。特に172mの国鉄横断橋、185mと159mの径間の五色高浜橋連続鋼桁の製作と架設、羽田トンネルや海老取トンネルに採用したシールド工法、沈埋函工法は当時の最先端技術として注目を浴びた。

(東京モノレール株式会社発行「20年のあゆみ」「25年技術史」「東京モノレール50年史」の文章の一部を引用のうえ編集/鬼柳雄一)

1. 軌道桁一般図

2. コンクリート支柱断面図

3. アルウェーグ・バーン試験線

4. ディビターク工法による橋脚工事

5. 海老取川河口トンネル工事におけるトンネル部材の運搬

6. シールド工法による旧B滑走路地下トンネル工事 

資料提供:1-6. 東京モノレール株式会社

東京モノレール2

モノレール開業、そして

 東京オリンピック開催まで23日と迫った1964年9月17日、東京モノレール羽田線は開業した。羽田空港~浜松町間13.1㎞を15分で結ぶ跨座式モノレールは当時の世界最長であった。世界的にもめずらしい本格的なモノレールの開業により、週末にはモノレールの乗車や羽田空港に発着する飛行機を一目見ようと見物に来る家族連れで賑わったという。五輪終了後の不況や航空旅客の減少、当初は開業駅が羽田空港と浜松町しかなかったことなどの理由によりオリンピック後の乗車数は低迷したが、東京湾の埋め立てが進むにつれ、宅地開発が進み、住民の通勤や通学の足として利用されるようになっていった。

 モノレールは道路や河川の上の空間を有効利用できるうえ、高架鉄道よりも建設費が割安なため、都市の交通問題解消の手段として世界的に注目されていた。東京モノレールは、空港までの連絡交通機関としての有効性を実証した画期的な成功例とされている。開業から現在に至る約50年の間に行われた技術支援等によって大阪万博、北九州、多摩、沖縄、重慶、シンガポール、UAE等で建設され、東京モノレールのDNAは日本国内のみならず世界中に受け継がれている。

(東京モノレール株式会社発行「20年のあゆみ」「25年技術史」「東京モノレール50年史」の文章の一部を引用のうえ編集/鬼柳雄一)

1. モノレール路線図

2. モノレール開通記念切符

3. モノレール開通当時の浜松町駅

4. モノレール開通当時のモノレールと東海道新幹線

5. 開通当時の芝浦地区

6. 終戦後の浜松町駅~羽田空港(昭和21(1946)年/国土地理院空中写真を加工して作成)

7. モノレール建設直後の浜松町駅~羽田空港(昭和39(1964)年/国土地理院空中写真を加工して作成)

8. 現在の浜松町駅~羽田空港(平成30(2018)年/Google Earth) 

資料提供:1. 国立公文書館、2-5. 東京モノレール株式会社、 6-7.国土地理院、8.Google Earth

羽田空港C滑走路の建設

戦後の航空機の進歩発展はめざましいものがあった。特に1960年代は、ジェット機の登場によって、世界の航空業界に大きな転機が訪れた。羽田空港では、こうした航空機の大型化に対応すべく、新たにC滑走路(旧C滑走路)の整備が進められた。1959年から護岸の整備を開始し、その後、空港周辺の海底土砂約270万㎥を投入するといった非常に大規模な工事となった。

C滑走路は1964年3月に竣工し、同年4月21日より供用を開始した。また、同時期に、浜松から空港にアクセスするモノレールの整備が進められ、1964年9月に開通した。こうした空港の整備の後に、東京オリンピックを迎えることとなる。

1.羽田空港の変遷 1931年~2010年 

2.C滑走路(旧C滑走路)の完成,1964年3月

3.羽田空港 新旧管制塔

4.ターミナル前のモノレール羽田駅築造工事

5.モノレール開通(1964年9月)

資料提供:1-5.国土交通省関東地方整備局

1964年以降の羽田空港

1980年頃から、空港の能力向上と航空機の騒音問題の解消を目的として、東京都の廃棄物埋立地を空港用地として利用する沖合展開事業が進められた。これにより、新A滑走路、新C圧送路、旅客ターミナル等の整備が行われた。

また、2005年からD滑走路の新設工事が進められ、2010年10月に供用し、現在の羽田空港の姿となっている。 (井上真一)

1.現在の羽田空港(2019年4月撮影)

2.D滑走路桟橋部 基礎杭打設

3.D滑走路桟橋部 ジャケット据付の様子

4.D滑走路桟橋部 ジャケット据付後

資料提供:1-4.国土交通省関東地方整備局

その後/TOKYO2020を経て次の世代へ

1964年のオリンピックの成功や高度経済成長期を経て、TOKYOがさらなる発展を遂げる時期です。爆発的に増えたのがインフラ整備でした。首都高速道路は網の目状に整備され、3環状の道路も着々とつながっていきます。そして世界的な祭典「TOKYO 2020」で大きな役目を果たしました。ただし、インフラの使命はまだ残っています。次世代に向けた安全・安心な社会の構築です。高齢化する既存のインフラの改良・更新や、皆さんの都市生活をより便利にする改造を急ピッチで行っています。

首都高速道路株式会社 首都高速1号羽田線更新事業 更新前1号羽田線の建設動画(その1)

首都高速道路株式会社 首都高速1号羽田線更新事業 更新前1号羽田線の建設動画(その2) 

通勤五方面作戦1

今日の首都圏都市鉄道の基盤を築いた 国鉄による空前絶後の通勤鉄道改善プロジェクト 

「通勤五方面作戦」とは、1960年頃から1980年頃の20年間にわたり行われた 国鉄による大規模インフラ投資である。戦後の日本経済の高度成長、東京圏 への人口集中を背景とした通勤通学者の急増は「通勤地獄」とも言われた激しい鉄道の混雑を引き起こしていた。これを根本的に解決するため、東海道・中央・東北(高崎)・常磐・総武の放射5方面路線について、線路増設により抜本的に輸送力を増強し、客貨や快速・緩行の分離による混雑緩和を図るだけでなく、多数の道路との立体交差化・踏切解消による安全度の向上、地下鉄との相互乗り入れによるシームレスな移動をも実現するのが五方面作戦であった。この施策の実現は、第5代国鉄総裁の石田禮助のリーダーシップによるものが大きかったと言われている。(鬼柳雄一)

1.1965年の国鉄のネットワーク

2.五方面作戦の全体工程

3.1940-1960年代の東京駅 

出典:「鉄道が創り上げた世界都市・東京」

4.第五代国鉄総裁 石田禮助 
出典:『日本国有鉄道監査委員会10年のあゆみ』

「私は、国鉄が通勤対策に巨額の資金を注ぎ込むことには、消極的意見だった。しかし、総裁に就任して、新宿や池袋の混雑をまのあたりにみて、つくづ く自分の不明を覚った。もはや政府の仕事とか都の仕事とか言っている暇はない。放っておけば大変なことになる。」

(『充実した6年3力月』より抜粋、1966年)

 「現在われわれが解決しなければならぬというものは、通勤通学のあの交通地獄をどうするかという問題、さらに幹線の過密ダイヤをどうするかという問題、その間に処して輸送の安全をどうするかという問題、つまり火の粉というものを払うにはどうしたらいいか、こういうことがわれわれの問題であります。」

 (『第51回国会衆議院運輸委員会議録』より抜粋、1966年 )

通勤五方面作戦 2

中央線(1969年完成) 

東京の戦災は都心部および下町が激しく、新たな住宅は郊外や近郊都市に求めることとなったが、良好な住宅適地として残っていたのは城西地域のみであり、これが戦後の中央線沿線人口の増加の原因となった。

中央線については、中野-三鷹間(9.4km)の線路を増設したが、在来の2線と合わせて4線分の高架橋を建設するものであった。この高架化により43ケ所もの踏切が解消された。中野-荻窪間は東京1964大会の直前に高架化され、さらに1966年に複々線化された。また、荻窪-三鷹間は1969年に開業した。これにより緩行電車の三鷹までの延長、地下鉄 東西線との相互乗り入れが実現した。 

地下鉄東西線との直通運転は、極めて混雑している新宿駅をバイパスし、1969年 の総武線と東西線との相互直通運転により、新宿・東京・錦糸町など都心部をスルーすることにより、混雑の緩和に大きく寄与した。(鬼柳雄一)

1.中央線の輸送改善内容 

出典:「中央線線路増設 中野・三鷹間」(記録映画)

2.高架開業直前 1964年の環状7号線の踏切
出典:「乗り物ニュースホームページ」(1964年9月19日 楠居利彦撮影)

3.中野 - 三鷹間の高架化完成後 始発列車出発式

出典:「都市鉄道の誕生 中央線線路増設工事の記録」

4.中野 - 三鷹間 高架化完成

出典:「都市鉄道の誕生 中央線線路増設工事の記録」 

5.高架化完成後の西荻窪駅

出典:「都市鉄道の誕生 中央線線路増設工事の記録」 

通勤五方面作戦 3

東北線(1968年完成) 

東北線の赤羽-大宮間(17.1km)では、もともと京浜東北線と旅客・貨物が併用する列車線の複々線であったが、東北・高崎両線の都心向けの通勤需要が急増するなか、線路容量の増加が急務であった。本区間には高架化の困難な貨物駅等を多く含んでいたため、増設する線路は、地平の既設線と併設した。 

これと合わせて、平面交差により輸送の隘路となっていた大宮駅北部の東北線と高崎線を立体交差化して解消した。また、赤羽-川口間に増設した荒川橋梁では、河川部の桁下空頭の確保と市街地への騒音の低減のため、長大橋梁では日本初の複線PC下路桁が採用された。コストダウンを図るため主桁を傾斜させているのが特徴である。 

これらにより中距離旅客線・緩行電車線・貨物線をそれぞれ分離運転できるようになり、東北・高崎線の増発と編成長増(15両化)が実現した。(鬼柳雄一)

1.東北線の輸送改善内容

2.東北線の改善区間図 

出典:「東北線線増工事誌赤羽・大宮間」

3.完成時の荒川橋りょう(日本初の複線PC下路桁の長大橋りょう)

出典:「日本鉄道施設協会(昭和41年3月)発行、構造物設計資料No.5」

4.現在の荒川橋りょう

通勤五方面作戦 4

常磐線(1982年完成) 

戦後の高度成長期を迎えると、常磐線沿線にも住宅地が増え、常磐線の混雑率も非常に高くなってきた。しかし上野-取手間では、近距離電車、中・長距離を競合して使用していたため線路容量は限界に達していた。そこで、列車、貨物列車が同一線路綾瀬・取手間(32.2km)について、既設線に併設した線路増設により複々線化を行った。これにより、中距離列車と緩行電車の分離運転が実現するとともに、快速列車が新たに設定された。 

しかし、北千住から西の都心区間は住宅密集のため快速線と緩行線を並行させた複々線化は困難であったため、既存地下鉄3路線(銀座・丸の内・日比谷)のバイパス線と位置付けられた千代田線に綾瀬駅で乗り入れ、緩行電車との相互直通運転を実施して都心へ直通することとなった。綾瀬・我孫子間が1971年、我孫子・取手間が1982年に使用開始され、踏切は62ケ所も解消された。(鬼柳雄一)

1.常磐線の輸送改善

2.常磐線の改善区間図  

出典:「日本鉄道請負業史」

3.綾瀬駅出発式

出典:「下総の大動脈流・常磐線複々線化工事の記録」

4.綾瀬・北千住区間の直通運転

出典:「下総の大動脈流・常磐線複々線化工事の記録」

5.北千住・松戸間の開通

出典:「下総の大動脈流・常磐線複々線化工事の記録」

通勤五方面作戦 5

総武線(1981年完成) 

総武線の課題は、混雑緩和と秋葉原駅乗り換え旅客の減少であった。これには1複線を増設するとともに、秋葉原駅をバイパスして東京駅と直結することが 効果的であるとの方針のもと、東京・両国間(3.2km)を別線で線増するとともに、両国・津田沼間(23.4km)、津田沼・千葉間(12.5km)を複々線化することとした。

これにより、両国・津田沼間の線路別運転を前提として、錦糸町・新小岩・市川・船橋・津田沼を停車駅とする東京地下駅までの快速運転を実施することとなった。また、横須賀線電車との相互直通運転、快速電車と緩行電車の線路別運転も実現した。

 1972年に東京・津田沼間の線増、1981年に津田沼・千葉間の線増が完成した。高架区間の設定等により踏切が56ケ所解消されることとなり、市川駅など数多くの駅が地平駅から高架駅に変貌し、駅周辺開発も一気に進んでいった。 (鬼柳雄一)

1.総武線の輸送改善

2.総武線の改善区間図 

(上・中段)出典:「総武線増高架化工事の設計施工について」

(下段)出典:「東工 通巻第107号」

3.高架化前の市川駅北口

 出典:「大東京ビフォー&ナウホームページ」

4.小伝馬町トンネル貫通

出典:「総武線線増工事誌東京・津田沼間」

5.市川駅発車式

出典:「総武線線増工事誌東京・津田沼間」

通勤五方面作戦 6

東海道線(1980年完成) 

1960年当時、東海道線では沿線の開発が目覚ましく、通勤・通学客が急増していたが、東京-大船間では、湘南電車(東海道線)と横須賀電車とが1複線の旅客線路を共用している状態であり、ラッシュ時の混雑は甚だしいものとなっていた。

このため、東京-品川間については地下の別線を増設、品川-新鶴見間は貨物線を旅客に転用、新鶴見構内では既設線に併設して線増、鶴見-戸塚間は別線で線増、戸塚-小田原間は既設線に併設して線増がなされ、1980年に東京-小田原間(83.9km)全線が完成した。 

これにより東京-大船間については、東海道線と横須賀線の運転を分離することができ、大船-小田原間については旅客と貨物列車の分離が図られるとともに、横須賀線と総武線の相互直通運転も実現した。合わせて、西大井駅を新設するとともに、道路との立体交差により40ケ所の踏切を解消した。(鬼柳雄一)

1.東海道線の輸送改善

2.東海道線の踏切解消位置図

3.東海道線の改善区間図

4.品川駅出発式

出典:「東海道線線増工事誌 品川・小田原間」

5.新川崎駅開業式

出典:「東海道線線増工事誌 品川・小田原間」

6.東戸塚駅開業式

出典:「東海道線線増工事誌 品川・小田原間」

通勤五方面作戦 7

五方面作戦のDNAを引き継いだその後のプロジェクト 

五方面作戦以降も東京圏の人口は1975年~2000年で約1300万人の増加が予測され、輸送力として30万人/hが不足するとされていた。また、通勤電車の輸送力は1965年~1980年までに1.5倍(約10万人/h増)に増加させたが、輸送量も1.4 倍に増加しており、1980年の線区平均混雑率は250%と依然として高いままだった。

さらに通勤電車の都心への乗り入れは上野・東京・品川方面が中心となっており、新宿・池袋方面への乗り入れがなかった。国鉄はこれに対応するさらなる将来輸送改善構想を持っていたが、このDNAを引き継いだプロジェクトが後にJRなどによって実現されていくこととなる。 

総武線の輸送力増強・混雑緩和のため実現したのが京葉線(総武開発線)である。 これは当初、全線貨物線として計画されたが、昭和50年代、沿線の土地利用計画の変更により旅客機能が追加された。これにより総武快速線の混雑が約30%緩和された。
(鬼柳雄一)

1.五方面作戦後の輸送改善計画

2.五方面作戦以降に実現した輸送改善プロジェクト

3.当初は全線貨物線として計画された京葉線(総武開発線)

4.東京駅での京葉線の開業式典

通勤五方面作戦 8

近年になって実現したプロジェクトに湘南新宿ライン(東海道開発線)や、上野東京ラインがある。湘南新宿ラインは、上野行きとなっていた東北-高崎線を山手貨物線の活用により池袋-新宿方面へ乗り入れ、東海道・横須賀線方面へ直通運転するものである。2001年、池袋駅構内での埼京線と山手貨物線の立体交差により、湘南新宿ラインの大幅増発、埼京線の混雑緩和、池袋駅での方向別ホーム化を実現した。

 上野東京ラインは、東北新幹線の建設に伴い分断された上野-東京間の線路を、新幹線直上に高架新線を建設することにより復活させ、上野駅を起点とする東北 線・高崎線・常磐線を東京駅へ乗り入れ、さらに東海道線方面へ直通運転するものである。これにより山手線上野-東京間の混雑緩和、都心方面への速達性向上とシームレス化に大きく貢献した。

 2016年に交通政策審議会が「東京圏における今後の都市交通のあり方」について答申している。東京圏の鉄道は、国際競争力の強化、国民生活の豊かさの一層の向上、まちづくりとの連携、駅空間の質的進化などを目指して、これからも発展し続けていくだろう。(鬼柳雄一)

1.湘南新宿ライン(東海道開発線)(2001年開業)

2.上野東京ライン(2015年開業)

3.池袋駅構内での埼京線と湘南新宿ラインの立体交差

4.東北新幹線の直上に建設された上野東京ラインの線路

1964から2020へ 首都高速道路の歩み

1964年~1987年

「都市間高速道路との接続」首都圏のネットワークが日本のネットワークへ

首都圏の一般道路の深刻な交通渋滞を緩和するため建設が進められた首都高速道路。だが、全国の高速道路網整備が進むにつれ、各高速道路をつなぐ機能も求められるようになった。首都圏のネットワークから日本のネットワークへ転換を求められたのである。

その先駆けとなったのは、東名高速道路と接続する3号渋谷線である。東名高速道路が開通した昭和43(1968)年には渋谷までしか開通していなかったが、3年後の昭和46(1971)年には中央自動車道と4号新宿線、昭和57(1982)年には東関東自動車道と湾岸線、昭和60(1985)年には常磐自動車道と6号三郷線、そして、昭和62(1987)年には東北自動車道と川口線の接続が実現した。

昭和62(1987)年は首都高速道路にとっても、また日本の高速道路網にとっても、重要な一年となった。(高野正克)

1.1964年~1987年の整備状況

2.三郷ジャンクション  (1985年開通)

3.湾岸線 東京港トンネル  (沈埋トンネル/1976年開通) 建設状況

4.湾岸線 東京港トンネル  (沈埋トンネル/1976年開通) 開通後

5.湾岸線 荒川湾岸橋  (上路式ゲルバートラス橋/1978年開通) 建設状況 

6.湾岸線 荒川湾岸橋  (上路式ゲルバートラス橋/1978年開通) 開通後

7.中央環状線 かつしかハープ橋  (S字型曲線斜張橋(一面吊り)/1987年開通) 建設状況

8.中央環状線 かつしかハープ橋(S字型曲線斜張橋(一面吊り)/1987年開通) 開通後

1988年~2019年

「中央環状線など機能的ネットワークの強化」慢性的な渋滞を解消する機能的なネットワークの整備

全国の高速道路網との接続に伴う役割の拡大は問題も引き起こした。各高速道路から流れ込む通過交通により、首都高速道路の利用交通量は着実に増加し、第二期の整備が完了した昭和62(1987)年の交通量は1日100万台を超えた。

しかし、都心環状線を先頭とする放射道路の各所で渋滞が慢性化した。首都高速道路が「有料駐車場」と揶揄されたのものこの時期である。そのため、都心環状線の通過交通の迂回路となる中央環状線や湾岸線等を建設し、機能的なネットワークの整備を進めた。

厳しい制約の中、様々な創意工夫を駆使し建設した。最大高低差約70mの接続のため「4層ループ構造」を採用した山手トンネルと3号線渋谷線高架橋部を結ぶ大橋ジャンクションはその一例である。

さまざまな難工事を経て、平成27(2015)年、中央環状線が全線開通し、機能的なネットワークの整備は大きく前進した。(高野正克)

9.1988~2019の整備状況

10.大橋ジャンクション(4層ループ構造/2010年開通)

11.港湾線 横浜ベイブリッジ  (斜張橋(二面吊り)/1989年開通) 建設状況

12.港湾線 横浜ベイブリッジ  (斜張橋(二面吊り)/1989年開通) 開通後

13.港湾線 鶴見つばさ橋  (斜張橋(一面吊り)/1994年開通) 建設状況

14.港湾線 鶴見つばさ橋  (斜張橋(一面吊り)/1994年開通) 開通後

15.11号台場線 レインボーブリッジ  (吊橋/1993年開通) 建設状況

16.11号台場線 レインボーブリッジ  (吊橋/1993年開通) 開通後

17.中央環状線 山手トンネル  (シールドトンネル/2015年全線開通) 建設状況

18.中央環状線 山手トンネル  (シールドトンネル/2015年全線開通) 開通後

資料提供:1-18.首都高速道路株式会社

生まれ変わる首都高道路

過酷な使用状況におかれる首都高

ネットワークの整備が進む一方、昭和39(1964)年の東京オリンピックまでに建設された路線は50年以上も首都圏の大動脈として活躍してきた。50年以上が経過した路線は全体の約21%(約68km)、30年以上が経過した路線が約63%(約201km)に達し、道路の高齢化が進行している。

首都高速道路は、幹線道路や江戸時代以来の水路など公共空間を大いに活用し建設した背景も影響し、きめ細やかな維持管理を必要とする高架橋やトンネルなどの構造物を占める割合が約95%と著しく高い。また、道路の高齢化・高い構造物の比率に加え、交通量が多い。特に、大型車の交通量が多く過酷な使用状況におかれている。

このため、既存路線の構造物には高齢化に伴う数多くの損傷が生じている。代表的な損傷はコンクリート床版のひび割れ、鋼桁・鋼床版の疲労き裂損傷等である。(高野正克)

1.開通からの経過年数

2.開通からの経過年数比率

3.道路構造別比率

4.コンクリート床板 ひび割れ損傷

5.鋼桁 き裂損傷

首都高速道路を100年先の未来も首都圏の大動脈として機能させる

発生損傷に対しては計画的・効率的な補修を実施している。さらには、首都高速道路が100年先の未来においても首都圏の大動脈として安全・安心に機能し続けるために、長期耐久性・維持管理性の確保を軸に、老朽化した構造物を造り替える「大規模更新」を進めている。

高速1号羽田線 東品川桟橋・鮫洲埋立部は「大規模更新」の先駆けである。海上部に建設された東品川桟橋ではと海水面との空間が極めて狭く、点検・補修等の維持管理は困難を極める。

その結果、コンクリートの剥離や鉄筋の腐食等の損傷が多数発生している。また、鮫洲埋立部では、路面の陥没等の重大な損傷も発生している。このため、長期的な安全性を確保する観点から、「大規模更新」が選択された。

ネットワーク整備を継続する一方、既存構造物を持続的に活用するため、現状を細かくチェックしながら、補修や更新を進めていく時代となった。(高野正克)

6.東品川桟橋・鮫洲埋立部更新事業箇所

7.東品川桟橋・鮫洲埋立部更新概要(断面) 

8.東品川桟橋・鮫洲埋立部更新概要(上:平面、下:縦断) 

9.東品川桟橋・鮫洲埋立部 建設状況  (1963年)

10.東品川桟橋 建設状況  (RC桟橋構造/1963年)

11.鮫洲埋立部 建設状況  (埋立構造(タイロッド式鋼矢板土留め)/1963年)

12.東品川桟橋・鮫洲埋立部 事業着手前

13.東品川桟橋・鮫洲埋立部 損傷状況 コンクリート剥離・鉄筋腐食

14.東品川桟橋・鮫洲埋立部 損傷状況 路面陥没

15.東品川桟橋・鮫洲埋立部 更新構造  (2026年度完成予定)

資料提供:1-15.首都高速道路株式会社

地 下 鉄 南 北 線・大 江 戸 線

21世紀を指向した2つの地下鉄 

東京の地下鉄は、都営と東京メトロという2つの事業者によって運営されている。昭和末期、当時12号線と7号線と呼ばれた2つの路線の計画が推進された。

のちに大江戸線となる12号線は東京では初のリニアモーター駆動による地下鉄、南北線となる7号線は7号ビジョンと呼ばれた、「ホームドア」「ワンマン運転」「ATO」といった現在ではあたりまえとなっている機構を積極的に導入した新路線であった。

土木技術の面でも2つの路線は今までにない新技術を採用し、現在確立されている都市土木技術の先鞭をつける存在であった。 

路線の概要

大江戸線は都内を円形に結ぶ初の路線、南北線は文字通り区部北側から皇居の西側を経由して南部までを結ぶ路線として計画された。 

1.大江戸線(12号線)路線図 

2.南北線(7号線)路線図 

リニア地下鉄の大江戸線 

 大江戸線は、大阪市交通局の鶴見緑地線に続く、日本で2番目のリニア地下鉄とし て誕生した。「リニアメトロ」と呼ばれたリニア地下鉄はその後、南から福岡、 神戸、横浜、仙台と全国6都市で開業した。 

3.リニア地下鉄の概要
出典:リニア地下鉄の概要 パンフレットに掲載されたリニア地下鉄の紹介

4.大江戸線の車両
出典:最新の12-600形 2次車のパンフレット

大江戸線の建設技術 

大江戸線は、鉄道や都市施設など既存のインフラとの交差が多く、開削部では既存インフラのアンダーピニングが施工され、シールド区間では新たな形態のシールドトンネルが開発された。 

開削区間のアンダーピニング

5.青山一丁目駅 

6.上野御徒町駅

7.門前仲町駅

新しいシールド工法の開発 

飯田橋駅

8. 3心円泥水式駅シールド工法を採用したシールド駅

六本木駅

9. 4心円泥水式駅シールド工法を採用した上下型のシールド駅

大江戸線建設の足跡 

 大江戸線環状部は、19の工区に分けて建設された。各工区とも駅開削区間と駅間シールド区間を組み合わせた3km程度の延長の大工区制を採用して工事の集約化と簡素化を図った。 

大江戸線と2020大会

出典:東京都交通局経営計画2019

10.メインスタジアム最寄り駅 国立競技場駅

フルハイトホームドアのある南北線 

 南北線は、日本の地下鉄では初めてホームドアを採用した。都市高速鉄道7号線と呼ばれた計画段階から21世紀を指向する便利で快適な魅力ある地下鉄を目指して、建設・運営計画に反映させた近未来型パッケージともいえる「7号ビジョン」を策定した。 

7号ビジョンの概要 

 ①利便性の向上、②快適性の向上、③ワンマン運転の実施、④ホームドアの設置、⑤建設費・運営費の低減の5項目からなり、策定当時はこれらを明確な規格として打ち出した 画期的なものであった。 

11.パンフレットに掲載された7号ビジョンの施策

南北線開業の足跡

12.全線開業の開通式

13.車両搬入の様子

14.レール締結式

《深さ約40mの開削駅》 

15.後楽園駅
出典:後楽園一工区パンフレット

段差の大きな地形に設置した開削駅 

16.六本木一丁目駅。建設時の仮称は東六本木駅であった

断面変化対応型シールドの開発

17.白金台駅部で採用した着脱式泥水三連型駅シールド

出典:白金台二工区パンフレット

18.麻布十番駅折返し線部で採用した抱き込み式親子泥水シールド
出典:南麻布工区パンフレット

資料提供:1,3-10. 東京都交通局、2,11-18. 東京メトロ

3環状道路

外環道(東京外かく環状道路)

都心から半径約15kmの圏域を連絡する環状道路で、全体約85kmのうち、大泉JCT~高谷JCT間の約50kmが開通している。東京都区間の大泉JCT~東名JCTについては、工事を鋭意推進中である。

1.東京周辺の都市群をつなぐ外環道  (東京外かく環状道路)

2.大泉JCT付近  (平成30年10月撮影)

3.三郷JCT付近  (平成26年3月撮影)

4.東名JCT(仮称)付近  (平成29年6月撮影)

5.高谷JCT付近  (平成30年5月撮影)

圏央道(首都圏中央連絡自動車道)

都心から半径40~60kmの圏域を連絡し、3環状道路の一番外側に位置する延長約300kmの環状道路で、全体の約270kmが開通済みである。

6.首都圏を広域的につなぐ圏央道  (首都圏中央連絡自動車道)

7.木更津JCT  (平成29年1月撮影)

8.栄IC・JCT(仮称)  (令和元年6月撮影)

9.首都圏3環状道路

10.通過交通の抑制:通過交通の都市部流入を抑制する

11.地域間移動:周辺地域間の移動が直接できる

12.分散導入効果:郊外から都市部への交通を分散誘導する

13.非常時の迂回機能:災害や事故などで一部区間の不通があっても速やかに迂回できる

H29年度工業地基準地価の上昇について、全国上位10地点の中で、6地点が圏央道沿線である。圏央道沿線の五霞町では、工業地の地価上昇率が約18%と全国1位である。

Eコマースの市場規模が拡大するにつれ、高度な仕分け・荷捌き等の機能を有する大型マルチテナント型物流施設の立地が圏央道沿線で活性化している。圏央道沿線の主な大型物流施設4社においては、約4倍に増加している。(7件⇒27件)
(Eコマース:インターネット技術を用いた商取引)

14.圏央道の整備効果:沿線の工業地の地価上昇

15.3環状道路の整備効果:大型物流施設が沿線に続々立地

主催 公益社団法人 土木学会

本展示は、2019年11月14日~17日に、新宿西口広場イベントコーナーで開催した「土木コレクション2019」の展示コンテンツをもとに展開するものです。

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